メモ帳

web拍手への返信用に用意しましたが、雑記としても使うかもしれません。

「共生を志向する知的生命体」についての話

「絶対的他者との共存」をテーマにした漫画を描きたいなという思いが随分前からあり、当初は「結局は分かり合えないのだ」という後ろ向きな結論に落ち着けるつもりだったのですが、作業中に観た映画の影響で考え方が大分変わり、最終的に私にしては珍しく優しいお話になったのではないかと自負しています。

その映画というのが『散歩する侵略者』『羊の木』の二本なのですが、機会があったら観てみてください(ダイマ) 両方とも切なくも希望のある終わり方をしますが、中盤は不穏で怖いし血も結構流れるのでそこはご注意ください。

 

他者性という概念を浮き彫りにするために、わかりやすく人類にとって絶対的他者であり脅威でもあるエイリアンを登場させましたが、別に人間同士だって、相互に完全な理解は得られていないのに共感し合っているという歪な状態はよくある、というかほとんどすべての人間関係がそうだと私は思っています。人間という同じ種族でも他者なので。自己以外はすべて他者なので。

「歪な」という言葉を選ぶとマイナスイメージが生じてしまうかもしれませんが、そもそも自己以外を完全に理解するなどということはおよそ不可能で、それでも共に生きていくために自己を他者へ投射する「共感」という機能はとても美しいものだと私は思っています。他者を自己のうちに取り込む「理解」と、自己を他者へ投射する「共感」は全くベクトルの異なるものなので、本来代替品になるはずはなく、その意味で歪だと感じるのですが、しかし尊い働きかけだと思っています。

また、人間を人間以外から区別する基準に共感能力の有無を考える人間(つまり、人間を人間たらしめている特長的な能力は共感能力であると他ならぬ人間自身が定義していること)がとても好きです。これはフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、人間と寸分たがわぬ容姿や表情、言語能力を有するアンドロイドを唯一見分けられるポイントが「人間のような共感能力を持っていないこと」だとされている点に大きく影響を受けています。

 

私は共感という働きかけが大好きですし美しいとも思っていますが、それが成立するためには前提として相互不理解がなければならないと思っています。理解できるなら共感は要らないはずです。誰も自分自身には共感しません。共感の余地なく理解できているからです。要するに私はボーイズ相互不理解が描きたかったのです。相互不理解にラブとルビを振るのはさすがに無理がありますが、理解できなくてもなお傍にいようと試行錯誤する精神の働きは愛以外の何物でもないと私は思います。

 

めちゃくちゃ余談ですが、これまで挙げた三作品とは対照的に、最初から最後まで理解も共感も成立しない、ただただ人間の理性の限界を思い知らされるばかりのおぞましいお話としてはスタニスワフ・レムの『ソラリス』を推します。大好きな本です。