メモ帳

web拍手への返信用に用意しましたが、雑記としても使うかもしれません。

私の描く漫画は暗くて陰惨で救いがないと自分でもわかっていますし、よくそう紹介するのですが、陰惨で救いのない物語は手段であって目的ではないということをなんとなくここらで明言しておきたくなりました。特に誰からも質問とか受けてないので自己満足です。隙あらば自分語りってやつです。

伊勢物語』の中の芥川というお話、有名だとは思うのですが、簡単に紹介します。

男が身分違いの恋に落ち、三年もかけて女をなんとか攫って駆け落ちを決行します。道中、草についた露を指して女が「あれは何ですか」と問いかけても、追っ手を恐れて急いでいるので答えることもできません。そのまま、鬼が出ると噂の地域に差し掛かり、女をあばら家の中に隠して自分は外で見張りをします。しかし、あくる朝、あばら家を覗いてみると女は鬼に食われてしまって跡形もありません。男は「あれは何ですかと問われたとき、露ですよと答えて諸共に消えてしまえばよかった」と嘆きました。

坂口安吾が『文学のふるさと』でこのお話について、このむごたらしく救いのない結末にこそ我々は生存そのものがもつ孤独を見る、この孤独こそが我々のふるさとなのだというようなことを述べています。

女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食わるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。

 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。

私はこのふるさと概念に近づきたいだけです。目標はそれだけです。ただこのふるさと概念、あまりに抽象的かつ内面的で、要するに物語を介さずに生み出すことのできないものなので、むごたらしいストーリーや不幸なキャラクターが必需品だという話です。